いましかみえない

自分の頭の中を可視化する自分のためのブログ。

誰のためのファンなのか

「あんたの好きな○○が□□してくれるわけ!?」
私が怒られるときの決まり文句である。

○○にはその時その時でハマっているものが入るし、□□には『テストでいい点取れる』とか『受験に合格』とかそんなものが入っていたんだと思う。この言葉の意味はつまり「○○しないで勉強しろ」なのだろうが、そんなことで勉強するような奴ではなかった。私の好きなアイドルやドラマのキャラが私の人生を決めてくれるわけがないのは当然のことだ。なのに、なぜそれを私にぶつけてくるのか分からなかった。それでも何度も何度も何度も何度も叱られていれば、こんな私でも「私はこれを好きでいる必要はあるのだろうか」「そもそもこれは私にとって何なのだろう」と深刻に考えさせられるのである。でもそんな落ち込んだ気分も、喉元過ぎれば熱さを忘れるし、最終的に「私がただ好きなものなんだ。何が悪い」と開き直っていた。

「ファンってなんなんだろう」そう考えるようになったのは自分のお金と時間が自由に使えるようになってからだと思う。テレビっ子でただ自分の好きなものがテレビで見られれば幸せだったあの頃には考えもしなかったことだ。コンサートに行って客の多さに驚いた。彼ら彼女らを好きな人たちはこんなにもいるのだと初めて気づかされたのである。そしてふと考えた。「自分がいなくても成立するんだ」と。たとえば自分の興味が薄れてコンサートのチケットを申し込まなかったとしても、その席は別の誰かが埋めるのだろうし、わたしひとりがお金を落とさなくなったところで彼ら彼女らには何の影響も与えないのだ。所詮ファンなんてこんなもんである。最初はただそのままの彼ら彼女らが好きで純粋に応援していたはずなのに、知りすぎて欲が強くなって評論家になってしまったりする。何様だと問われれば「ただのファン」としか言いようがない。コンサートに行って本物を目の当たりにして、「同じ人間なんだ」と安心しかけるものの、一生出会うことのない人たちだと我に返る。その繰り返しだった。好きな人が自分たちのファンについて語るときに、他人事のように聞いていた。ファンは集合体でしかないし個人個人の私に話しかけてくれているのではないのだ。ファンは自己申告制だし私はそもそもファンなのか?とか考えればきりがない。ただ好きでいたいだけなのに難しく考えてしまって自分で首を絞めているのは自覚している。この考え方なんなんだよとツッコんでいる自分もいる。

ファンは無力だ。どんなに好きだってお金を落としていたって、いざというときには何もできない。だから後悔しないようにいま会いに行け、とよく言われる。でも会わなくたって会いにいったって結果が変わらないのなら同じことなのではと思ってしまう。なんならライブを見に行って出待ちしてお話してしまったがために余計に辛いこともある。たぶん私が好きなあの人は帰ってこない。お茶の間ファンのままだったら、こんなにショックを受けることもなかったのかもしれないと悔やんだ。実際、私は何もしてあげられなかった。永遠に在り続けるものなんてこの世に無いと分かっているはずなのに、好きなものが壊れて初めて気づく。

ファンは結局、直接彼ら彼女らになんにもできないし与えられるものを黙って享受するしかない。自分たちが入れる公演数を増やしてもらうために、露出を増やしてもらうためにファンは消費行動をする。ただ好きだから。ファンはファンのために存在するのだ。

それが、ぐるぐると考えあぐねて出した、私なりのファンの定義だった。

 

 

 

最近、その自分の勝手な定義を覆すかのようなファン活動が起きた。
黙って見守っているのではなく行動を起こしたのだ。
私はただ羨ましく思った。それだけ熱量を注いで支えたいものがあることに。
全国のファンがまとまろうとしていた。

 

 

 

その活動が功を奏した、と結ぶつもりで私はこの記事を書き始めたはずだった。
なんにもできないという考えまでも、ひっくり返してくれないかと期待していたのだ
あのときまでは。

 

 

夢を見ていたんだ。